日本の城一覧

重要文化財7城 高知城 - ホームメイト

文字サイズ
「高知城」(こうちじょう:高知県高知市)は、土佐藩(現在の高知県)の初代藩主「山内一豊」(やまうちかずとよ)が10年がかりで築城した城です。築城時の天守と本丸御殿がどちらも維持されており、特に本丸御殿がほぼ完全な形で残っている唯一の城で、城跡は国の史跡にも指定されています。また、別名「鷹城」(たかじょう)と呼ばれ、漆喰で造られた白い壁と瓦葺の灰色が、まるで鷹の羽のように見えることが由来です。高知城は、1727年(享保12年)に城下町で起こった大火により、追手門(おうてもん)を除いて天守をはじめとした建造物のほとんどを焼失。しかし、1753年(宝暦3年)には修復されています。国の重要文化財のひとつである高知城の歴史と見どころを紹介しましょう。

高知城の歴史

高知城

高知城

高知城」(こうちじょう:高知県高知市)は、1601年(慶長6年)に「山内一豊」(やまうちかずとよ)が築城に取りかかり、完成までに10年もの歳月を要しました。

そのあと、1727年(享保12年)の火事により大部分を焼失しているため、現在も残っている天守や本丸御殿などは、焼失から約25年の歳月をかけて修復や再建された建築です。

ここでは、築城から現在に至るまでの歴史を振り返ってみましょう。

高知城の築城

土佐国(とさのくに:現在の高知県)は、土佐藩の初代藩主・山内一豊が入国する以前は「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)の四男「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)によって統治されていました。その長宗我部盛親が1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で豊臣方の西軍について敗けたため、勝者の「徳川家康」によって領土を没収されます。その代わりに土佐国に入国したのが初代土佐藩主・山内一豊です。

山内一豊は、それまで居城にしていた「掛川城」(静岡県掛川市)から、「浦戸城」(高知県高知市)へ入城。しかし、浦戸は城下町を拓くには狭く、また水害が多い地でした。そのため前領主の長宗我部氏も浦戸へ築城することを断念したと言われているほどです。

山内一豊は、この浦戸に築城するのは山内家の技術だけでは難しいと判断。そこで山内一豊が築城の総奉行として白羽の矢を立てたのが、石垣の施工にすぐれた職人集団「穴太衆」(あのうしゅう)を配下に持っていた「百々綱家」(どどつないえ)です。

しかし当時の百々綱家は、関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍に与したため罪人とされ、京都で蟄居処分(ちっきょしょぶん:閉門の上、自宅の一室に謹慎させること)となっていました。山内一豊は、徳川家康に百々綱家の赦免と雇用を嘆願。申請は無事に認められ、山内一豊は百々綱家を築城総奉行に任命したのです。

こうして築城が始まり、1603年(慶長8年)に本丸と二の丸の石垣が完成。そのあと本丸も完成したため、この年に山内一豊が入城します。このとき山内一豊が、城の建つ山を大高坂山(おおたかさかやま)から「河中山」(こうちやま)と改めたため、城は「河中山城」(こうちやまじょう)と名付けられました。

そのあとも、この地がたびたび水害に見舞われたため、2代目土佐藩主の「山内忠義」(やまうちただよし)は「河中」という字を敬遠して、1610年(慶長15年)に河中山城を「高智山城」と改名。やがて、高智山城が省略されて高知城と呼ばれるようになり、地名も高知になったと言われています。

翌1611年(慶長16年)に三の丸が完成し、着工以来10年の歳月を経てほぼすべての城郭が整いました。

高知城の江戸時代から現代まで

高知城の完成から100年余りのちの1727年(享保12年)、城下町で起こった大火により、高知城は追手門(おうてもん)を除いた建造物のほとんどを焼失。これを受けて8代目土佐藩主の「山内豊敷」(やまうちとよのぶ)は、1729年(享保14年)に「深尾帯刀」(ふかおたてわき)を普請奉行(ふしんぶぎょう)に任じて城の再建に着手しました。

1749年(寛延2年)に天守や(やぐら)、などが再建され、1753年(宝暦3年)に現在の姿に近い状態まで復元が完了。現存している天守や本丸御殿は、このときに再建された建築です。

高知城は築城した山内一豊に始まり、山内氏が16代にわたって城主を務めましたが、1871年(明治4年)の廃城令により、1873年(明治6年)に廃城となります。これに伴い、天守や本丸周辺の建造物、追手門を残し、建造物は取り払われましたが、城跡は翌1874年(明治7年)に「高知公園」(高知県高知市)として一般に開放。

1934年(昭和9年)に天守など15棟の建造物が国宝保存法に基づく旧国宝に指定され、1950年(昭和25年)には文化財保護法により国の重要文化財に登録されました。1959年(昭和34年)に国の史跡にもなり、2006年(平成18年)には「日本100名城」にも選定されています。

2015年(平成27年)には追手門の石垣と狭間(さま)を修理。2020年(令和2年)にも天守の高欄(こうらん)を改修する工事が行われ、2021年(令和3年)に完了しました。

高知城の歴代城主

高知城は、築城した山内一豊に始まり、山内氏が16代にわたって城主を務めました。ここでは、歴代城主のなかから主な城主についてご紹介します。

山内一豊

山内一豊の銅像

山内一豊の銅像

山内一豊は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、「織田信長」や「豊臣秀吉」、徳川家康らの天下人に仕え、信頼された武将

良妻「千代」(ちよ)がへそくりをはたいて名馬を買い、これをきっかけに武功を挙げて出世したという逸話が有名です。

山内一豊は、関ヶ原の戦いで徳川家康に率先して味方した功績により、土佐国240,000石を与えられました。そして初代土佐藩主となり、高知城の築城に着手しています。1603年(慶長8年)に本丸に入城しましたが、このとき高知城は築城途中でした。その後、山内一豊は1605年(慶長10年)に病死し、完成した高知城を見届けることはできなかったのです。

山内豊敷

山内豊敷は、高知城の8代目城主。1727年(享保12年)の大火で焼失した高知城を約25年かけて建て直しました。42年の長きにわたり高知城主を務め、その間、高知城の焼失、凶作や一揆に悩まされましたが、現在、見られる高知城は山内豊敷が再建した建築です。

高知城の見どころ

現存12天守のひとつであり、国の重要文化財にも指定されている名城。ここでは、現在も目にすることができる高知城の見どころをご紹介します。

本丸御殿

本丸御殿内 書院造の様子

本丸御殿内 書院造の様子

江戸時代に築かれた本丸御殿が現存している城は、高知城と「川越城」(かわごえじょう:埼玉県川越市)のみで、天守と本丸御殿がどちらも残っているのは高知城だけです。

本丸とは城主が寝起きし、政務を行う場所で、本丸御殿はまさにその中心部。高知城では15棟の建造物が重要文化財に指定されていますが、そのうち11棟は本丸御殿に集中しているのです。

高知城の本丸御殿は「懐徳館」(かいとくかん)と呼ばれ、上段の間・二の間・三の間・四の間・納戸・3畳2室・雪隠(せっちん:トイレのこと)・入側(いりかわ:縁側と座敷の間にある通路のこと)などで構成されています。二の間の南側には、城外の敵を監視するための「物見窓」があり、高知城は物見窓が残る唯一の城です。

書院造の懐徳館は天守への入口にもなっており、ここから上がって天守内を見学することも可能。また、懐徳館には城主・山内家ゆかりの品や、土佐の歴史や偉人の資料などが展示されています。

天守

天守外観

天守外観

高知城の天守は、独立式の「望楼型」(ぼうろうがた)天守。

この望楼型とは、屋根に物見のための建物である望楼を載せた様式で、外観は豪華、構造は頑丈です。また、独立式とは、まわりに附属建物がなく天守のみが独立して建つ形式。

独立式かつ望楼型の天守は、江戸時代以前に造られた天守を維持している現存12天守の城のなかでは、高知城と「丸岡城」(福井県坂井市)のみです。

高知城の天守は外観が4重、内部は3層6階建てになっており、天守の最上階には山内一豊が、かつての居城だった掛川城を模して造ったと言われる廻縁(まわりえん)と高欄が付けられています。廻縁とはいわゆる縁側のことで、高欄は手すりや欄干のこと。現存12天守の中でこの廻縁と高欄が天守にあるのは高知城と「犬山城」(愛知県犬山市)だけです。

天守4階にある窓から青銅製の鯱(しゃちほこ)を間近に見られます。また、最上階の6階からは高知市街が一望でき、廻縁と高欄があるため東西南北の景色を見ることが可能です。

高知城には多くの門も現存しており、そのひとつが城の正面玄関にあたる追手門。門の両脇に石垣を積み上げ、櫓を載せた堂々たる構えです。この櫓には、敵に石を投げ落として撃退するために「石落」(いしおとし)が設けてあります。1801年(享和元年)に建て替えられ、1948年(昭和23年)に始まった解体修理で現在の姿に修復されました。

「詰門」(つめもん)は、本丸と二の丸をつなぐ役目を果たす櫓門のことです。入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されているため、門内に侵入した敵が簡単に通り抜けられない造りになっているのが特徴。詰門は1階が籠城用の塩を貯蔵する蔵で、2階が訪問者を監視する詰所となっているためこの名が付いたと言われています。

石樋

石樋(いしどい)は、降雨などで城内に溜まった水を城の外に流すために石垣に造られた設備です。高知県の雨量の多さは全国でも有数で、高知城の石垣には多数の石樋が造られました。この石樋から流れ出た排水が石垣を濡らすと、石垣がゆるんで崩壊を招きます。

このため、石樋は石垣から突き出すように造られており、また、排水が落ちる位置には水受けの敷石をして地面を保護しているのです。高知城内では、本丸や三の丸などを含め、現在16ヵ所の石樋が確認されています。